千代鳳 【7勝8敗】 12枚目. 旭道山 : やはり十両に昇進した時です。十両になれて、やっと一人前の関取ですからね。幕下筆頭までは力士養成員ですから。 白まわしと黒まわし . 力士紹介 旭秀鵬 ; 力士紹介 旭大星 ... 力士へのメッセージ . All Rights Reserved.当サイト内に掲載の記事・写真等の無断転載を禁止します。. それがどうやって一晩で一升瓶3本も飲めるほど強くなったんですか?, 旭道山: 当時は兄弟子、新弟子、関係なく「乾杯」とグラスを合わせたら飲み干す、というルールがありました。, 旭道山: なるべくは……。新弟子が「乾杯」と言ってきても相手しないといけなかった。少し休憩しようと思っている時に新弟子が「乾杯」と言ってきたら、「オレ、今、休もうと思ってたのに乾杯すんな馬鹿野郎(笑)」と思いながら飲むんです。, 旭道山: そこも勝負だと思っていました。そういう場面で人間的に強いか弱いかがわかる。お酒が強いということは、馬力がある。馬力があれば体は強い。そうなると、相撲も強い。, 旭道山: ええ。それにお酒が飲めないと相撲界では「しょっぺぇな」と言われてしまうんです。, 二宮: 「しょっぱい」とは“つまらない”“情けない”を意味する相撲界の隠語ですよね。ところで、旭道山さんが現役時代に籍を置いていた大島部屋はモンゴル人力士を初めて受け入れた部屋として有名です。モンゴル勢はお酒をよく飲むと聞きます。, 旭道山: 旭鷲山や旭天鵬は、お酒が強かった。彼らが、「乾杯! 乾杯!」と言って兄弟子や僕と飲んでました。“この野郎”と思いながら一緒に飲んで、みんな潰れていくんです。それで最後に残ったのが、僕ですから。, 旭道山: 番付が上の者が払ったり、兄弟子が払ったりといろいろでした。ですが、当時は僕が払っていました。全部、身銭を切っていましたよ。, 旭道山: だから大島部屋にはほこりをかぶっていたお酒がたくさんありました。モンゴル勢はお酒が好きだから、“ちょうどいい!”と思って、「全部飲んでいいよ」と言ったんです。焼酎、ウィスキー、ハブ酒、薬用酒と何でも揃っていましたから。, 旭道山: 段々と味を覚えてしまったんです。「これマズい」「これイヤ」などと言うようになりました。, 旭道山: お酒は飲みましたが、煙草は吸わなかったですね。当時の稽古は、煙草を吸うとついていけない。ですから、他の力士にも吸わないように僕が取り締まっていました。, 旭道山: わかりますね。煙草を吸っている連中は稽古中、唇が真っ青になったり、泡を吹いたりするんです。相撲は煙草を吸いながらやれるような甘い世界ではありません。, 旭道山: そうです。要は「盗み」のことです。力士は部屋での共同生活が基本です。ですから、これはご法度ですよ。, 旭道山: 部屋の情報を外部に漏らすことです。相撲において情報はとても大事ですから。, 二宮: 関取の故障箇所の情報があまり出回らないのは、焚き付けがタブー視されているからでしょうか。, 旭道山: 故障箇所の情報が流出してしまうと、そこを相手につかれてしまう。これだと、相撲が取れなくなってしまいます。それをペラペラと外部に話す行為は裏切りととらえられます。, 旭道山: 土俵上で仕切っている時も事前に仕入れた情報をもとに、いろいろ考えるんです。今までのデータを思い出しながら、戦略を立てています。“相手がこう来たら、自分はこうする”とシミュレーションするんです。, 旭道山: 戦いの前なので目にグッと力は入っていますが、相手を睨みつけているわけではない。よく誤解されてしまいますけどね(笑)。相手の目線で「あれ、こいつ、オレから見て右をずっと気にしている。もしかしたら、右から来るのか」などと狙いがわかるんです。, 旭道山: 「立ち合いで変わるな」と読めるんです。やっぱり人間は、目で見て確かめたいですからね。思っている以上に、目はモノを言いますよ。, 旭道山: やはり十両に昇進した時です。十両になれて、やっと一人前の関取ですからね。幕下筆頭までは力士養成員ですから。, 旭道山: 幕下筆頭と十両の一番下(13枚目)。1枚違うだけでもガラッと変わります。, 旭道山: それに立場が全然違うんです。一番戸惑ってしまったのは、申し合い稽古の時でした。, 旭道山: 稽古の最初は幕下同士でガンガンやるんです。そこで十両に上がった自分が稽古場に立つわけです。彼らは1カ月、2カ月前まで一緒にガンガン稽古をやっていた相手ですよ。そいつらがまとめて向かってくるんです。, 旭道山: 負けられないですよ。コテッと負けたりすると「弱いなぁ」と言われてしまいます。それに稽古で十両以上は白まわしを締めるんです。幕下は黒まわし。このまわしの色の違いでも昇進を実感しました。相撲取りは十両になって一人前、幕下以下はその他大勢なんです。, 1964年10月14日、東京都生まれ。本名、波田和泰。中学卒業後、大島部屋に入門。80年5月場所で初土俵を踏む。翌年7月場所では序ノ口優勝を果たす。88年7月場所で新十両に昇進すると3場所連続で勝ち越し。89年1月場所に新入幕。この場所で9勝をあげて初の敢闘賞を受賞。92年9月場所で小結に昇進。粘り強い戦いから「南海のハブ」と言われた。96年9月場所後に廃業し、同年10月に第41回衆議院議員総選挙に立候補し初当選。衆議院議員を1期務め、現在はタレントや実業家として活動している。現役時代の通算成績は538勝551敗、殊勲賞2回、敢闘賞2回、金星1個。, 今回、旭道山さんと楽しんだお酒は本格そば焼酎『雲海』。厳選されたそばと、宮崎最北・五ヶ瀬の豊かな自然が育んだ清冽な水で丁寧に造りあげた深い味わい、すっきりとした甘さと爽やかな香りが特徴の本格そば焼酎です。ソーダで割ることで華やかな甘い香りが際立ちます。提供/雲海酒造株式会社, 営業時間: ランチ/11時30分~15時00分(LO14時)、平日ディナー/17時~23時(LO22時)、土・日・祝17時~22時(LO21時)定休日・無(ワテラスの営業日に準ずる), ☆プレゼント☆旭道山さんの直筆サイン色紙を本格そば焼酎「雲海」(900ml、アルコール度数25度)とともに読者3名様にプレゼントいたします。ご希望の方はこちらより、本文の最初に「旭道山さんのサイン色紙希望」と明記の上、下記クイズの答え、郵便番号、住所、氏名、年齢、連絡先(電話番号)、このコーナーの感想や取り上げて欲しいゲストなどがあれば、お書き添えの上、送信してください。応募者多数の場合は抽選とし、当選発表は発送をもってかえさせていただきます。締切は7月13日(木)までです。たくさんのご応募お待ちしております。なお、ご応募は20歳以上の方に限らせていただきます。, お酒は20歳になってから。 お酒は楽しく適量を。 飲酒運転は絶対にやめましょう。 妊娠中や授乳期の飲酒はお控えください。, 本格芋焼酎『木挽BLUE』の雲海酒造がお届けするアスリートと二宮清純の対談コーナーです。雲海酒造のお酒を飲みながら選手の知られざるエピソードをご紹介します。. 旭秀鵬 滉規(きょくしゅうほう こうき、1988年 8月9日 - )は、モンゴル・ウランバートル出身、友綱部屋(入門時は大島部屋)所属の現役大相撲 力士。 本名はトゥムルバートル・エルデネバートル(モンゴル語 キリル文字表記: Төмөрбаатарын Эрдэнэбаатар )。 2020年11月10日 . menu. 九重部屋の星取表に関するページです。九重部屋に在籍する力士の場所ごとの成績を公開しています。 ENGLISH. 千代大龍 【6勝9敗】 15枚目. 星取表. 日本相撲協会top > 力士情報・成績 > 力士データ > 過去の成績・検索 > 過去の成績・星取表 過去の成績・番付-各場所の情報 (平成25年一月場所~令和2年十一月場所) 旭秀鵬 滉規(きょくしゅうほう こうき、1988年8月9日 - )は、モンゴル・ウランバートル出身、友綱部屋(入門時は大島部屋)所属の現役大相撲力士。本名はトゥムルバートル・エルデネバートル(モンゴル語キリル文字表記:Төмөрбаатарын Эрдэнэбаатар)。身長190cm、体重150kg。血液型はA型。得意は右四つ・寄り。最高位は東前頭4枚目(2016年1月場所)。, 父は運送会社の元社長、母は元教師。首都ウランバートルの中心部に住み、3人きょうだいの姉が軍の病院医師、兄は日本の防衛大に留学して、現在は大統領警護官。モンゴルでは6月から8月末まで3ヶ月も夏休みがあり、その間、首都ウランバートルに住む多くの子どもたちは、田舎に行って暮らすが、旭秀鵬関も「家族で1カ月、親戚の家に行くんです。空気がすごくいい。馬に乗り、ヒツジを5キロくらい離れた遠くに連れて行く。夜は星がきれい。川でも遊びましたね」とその思い出を語っている[1]。幼少期には落馬を何度も経験しているが、急がないと馬に乗られるためすぐに起き上ったという[1]。2016年の夏巡業では、回転寿司店やラーメン店、居酒屋までもある現代のウランバートルの街について「町に何でもある。びっくりしました。みんな、田舎がなくなっているから、大自然で暮らす子も少なくなっているんですよ」と話している[1]。何不自由ない生活で、父はエルデネバートルには軍人関係以外になることを希望した。モンゴルでバスケット選手を行っており、両手のダンクシュートも難なく決めた[2]。エルデネバートルは進路を決めるときドイツ留学も希望していた。[3], 2004年にモンゴル・ウランバートルから岐阜県本巣市の岐阜第一高等学校(モンゴル柔道連盟と提携しモンゴルからの留学生を受け入れている)に柔道留学。これ以前まで柔道は未経験だったが2年時には県大会100kg級で優勝、東海大会で3位。[3]しかしこの2年時の県大会決勝で持ち上げて投げた瞬間、相手の膝が左の目の下に当たって顔面骨折した。「もっと大きな目標がある」との監督・高橋義裕の方針で全国大会は断念。県大会決勝で破った相手が全国でベスト8までいき、悔しがった。, 高校在学中に防衛大学校に留学中であった兄と旭天鵬が巡業で知り合い、3人で食事をする仲になった。相撲未経験でありながら旭秀鵬が角界入りの願望を持っていることを旭天鵬が知ると、ちょうど大島部屋が旭鷲山の引退により外国人枠が空いた[4]状況にあったため、旭天鵬は「強くなると思った。顔もいいし、体もいい。どうせなら大島部屋へ」と誘った。しかし高校側は進路先に推していた大学との関係があり、国費留学でもあるため入門は簡単ではなかった。揉めに揉めたが監督の高橋が「自分で後悔しない道を自分で選びなさい」と送り出したことでこの問題は解決し、これにより大島部屋入門を果たした。[5], 2007年5月場所で初土俵を踏み、序ノ口を1場所で通過。11月場所では7戦全勝力士3人による優勝決定戦を制し序二段優勝を果たした。, 2011年は7月場所、幕下西2枚目の地位で5勝2敗と勝ち越して、9月場所で十両に昇進。9月場所9勝6敗、11月場所で10勝5敗の成績を収め、十両を2場所で通過した。, 新入幕で迎えた2012年1月場所は9日目からの6連敗で負け越した。師匠の停年により、2012年5月場所からは友綱部屋所属となった。同年7月場所は西十両筆頭の地位で初日から7連敗の後休場(8日目は不戦敗で、0勝8敗7休)したことや、幕下から十両へ昇進する力士が多かったこともあり、翌9月場所では幕下へ陥落してしまった。十両筆頭の力士が翌場所で幕下に陥落するのは1913年(大正2年)5月場所の勝鬨以来99年ぶりで、所属する友綱部屋のブログでも、この陥落には不満の意があることが表明された。しかし、その場所は6勝1敗として、1場所で十両復帰を決めた。, 2012年11月場所で十両に復帰して以降は勝ち越しが続き、2013年3月場所では東十両2枚目の地位で12勝3敗とし東龍との十両優勝決定戦を制して十両優勝。翌5月場所で8場所ぶりの帰り入幕を果たしたが、9日目の千代大龍戦で敗れた時に右膝の複合靭帯を損傷し、10日目から途中休場することになってしまった[6]。十両(西十両2枚目)へ降下した翌7月場所では7勝8敗と負け越したが、翌9月場所は西十両3枚目で11勝4敗と勝ち越し。翌11月場所では2013年5月場所以来3場所ぶりの幕内復帰(東前頭14枚目)で、幕内では初めての勝ち越し。2014年1月場所は初日の千代鳳戦で左の眉間にぶちかましを受けて大流血するハプニング[7]に始まり中日まで2勝6敗と絶不調だった。そのまま10日目に負け越しが決定したが終盤に3連勝して5勝10敗とした。翌3月場所は8勝7敗の勝ち越しを得て、続く5月場所には再入幕して東前頭15枚目の地位を得た。その後は幕内に定着し、2016年には上位も窺う地位となったが、右膝を痛めて同年5月場所を全休し、7月場所では一気に十両へ転落した。7月場所は初日から連敗スタートするなど序盤は負けが先行したが、7日目から6連勝するなどで10勝を挙げた。東の6枚目で10勝という成績ながら番付運に恵まれ一場所で幕内に復帰となった。続く9月場所は13日目に7敗目を喫して後が無くなったが、残りを連勝して8勝7敗と5場所ぶりに幕内で勝ち越した。しかし11月場所は3勝12敗と大敗して再び十両へ転落。2017年1月場所は東の2枚目で8勝の成績ながら番付運にも恵まれてまたも一場所で幕内に復帰。しかし3月場所は5勝10敗と1場所で十両へ再降格となった。5月場所は12日目に勝ち越しを決めたもののそこから3連敗で8勝7敗の成績。1場所での幕内復帰は叶わなかった。西の筆頭に番付を上げた7月場所は5勝10敗と二桁の負け越し。2018年春巡業は初日からの休場が発表された[8]。夏巡業で積極的に稽古していたが、場所に入ると相撲に精彩を欠き、12日目に負け越しを確定させて場所を5勝10敗で終える[9]。12月25日、5歳年下のモンゴル出身女性との結婚会見を友綱部屋で開いた。この時点で語学留学して来日7年の夫人とは、その4年前から交際をスタートし、2017年10月2日に婚姻届を提出しており、結婚発表当時既に2歳1カ月と7カ月の2女がいた[10]。2019年5月場所6日目の豊ノ島戦では最初は白星を得たかに見えたが、令和初となる十両以上の取り組みにおける物言いが付き、同体ではないかと物言いが付いた中、豊ノ島が尻から落ちるより先に旭秀鵬の右手が着いたと行司差し違えにより黒星を喫した。行司差し違えも十両の取り組みにおいては令和初[11]。, 6月9日、都内のホテルで結婚披露宴を行った。多くの関取衆、伊勢ケ濱一門の親方衆など460人の出席者に祝福され、モンゴルからも70人の出席者が駆け付けた[12]。, 右四つからの寄りが得意であるが、突っ張りによる相撲もこなせる。上手からでも下手からでも投げが決まり、引き技もある。懐が深く、四つ身で素早く寄るところは兄弟子の旭天鵬に似たところである。このオールラウンダーぶりは幕内に上がってから体格が大きくなったことによるものであり、振分(元小結・高見盛)がそのように解説したことがある。しかし型が無いことが弱点として指摘されており、2016年3月場所前の座談会で浦風(元幕内・敷島)が指摘している上に、高崎(元幕内・金開山)も「何でもできるけど、器用と言うわけでもない」「一応、右四つが得意なんだろうけど、四つになっても不安ですよね。何となく勝っている感じ」と話している。同年11月場所前の座談会では、突っ張りも突き切るものではなく寄りか叩きにつなぐことがしばしばであると鳴戸(元大関・琴欧洲)は分析しており、中立(元小結・小城錦)も「だから二、三発、付いて相手の上体を越して捕まえて寄るような相撲だったら、そんなに膝もケガしないと思うんだけど、飛んだり跳ねたりいろんなことをするからね」と返している[13]。膝の怪我もあって負ける相撲はあっさりとしたものが多い[14]。, 『大相撲ジャーナル』2017年6月号付録 『スポーツ報知2017 大相撲名鑑』 p.15, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=旭秀鵬滉規&oldid=80148285, 2015年5月場所中日の阿夢露戦では両手で顔面を掴んで引く引き落としを見せ、報道では入門前に行っていたバスケットボールになぞらえて"ダンク落とし"と評されて話題になった, 各段優勝:十両優勝1回(2013年3月場所)、序二段優勝1回(2007年11月場所), 旭秀鵬 佑司(きょくしゅうほう ゆうじ)2007年5月場所 - 2010年1月場所. 8枚目. 力士プロフィール ... 8勝7敗 . 応援メッセージ. 旭大星関 初白星おめでとうございます! 旭天山 武 ( きょくてんざん たけし ) タイム-ライン 基本情報 . 十両. 幸区南加瀬の大相撲・旧中川部屋所属で地元出身の元幕下力士「旭勇幸(きょくゆうこう)」の濱上京介(はまがみきょうすけ)さんが今月、引� 日本相撲協会top > 力士情報・成績 > 力士データ > 力士を探す > 旭大星 託也 - 力士プロフィール . 日本相撲協会top > 力士情報・成績 > 力士データ > 力士を探す > 旭秀鵬 滉規 - 力士プロフィール . 幕内. 2020年11月7日 . 力士へのメッセージ . 中川(なかがわ)部屋に所属した主な大相撲力士を紹介する中川部屋力士一覧!この記事では中川部屋とその前身である春日山部屋の主な関取をメインに、最高位や改名歴、初土俵や各段の昇進時期と最終場所、さらに生涯戦歴と生涯勝率、成績等を中心に載せています。 力士. (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); (C) Copyright 2020 TOWNNEWS-SHA CO.,LTD. 取り直しの… 続きを読む . 千代翔馬 【6勝9敗】 8枚目. 筆頭. 幸区南加瀬の大相撲・旧中川部屋所属で地元出身の元幕下力士「旭勇幸(きょくゆうこう)」の濱上京介(はまがみきょうすけ)さんが今月、引退した。同部屋を巡っては親方の不適切指導があったとされ、部屋が閉鎖されたことが報じられた。濱上さんは複雑な胸中を明かしつつ、部屋で学んだことを母校の後輩たちに伝えたいと語る。 旭勇幸のしこ名で土俵に上がっていた濱上さんは、今年3月の春場所で左腕を肉離れ。肩をあげることができず、生命線である左まわしを取る相撲がとれなくなった。その後、腫れはひいたが、稽古の申し合いで再び負傷。さらに路上でつまずき、受け身をとった際に負傷し感覚がなくなった。5月下旬、引退を決意し師匠に伝えると、親方は数秒間の沈黙の後「そうか。ケガも多かったからな。お前が決めたことだ。俺は止められない」と語った。おかみさんは涙したという。 幸区南加瀬出身。県立向の岡工業高校を経て、川崎区にあった春日山部屋に入門した。その後、部屋の騒動で追手風部屋に移籍。当時から指導に当たっていた中川親方が春日山部屋を継承し、中川部屋へ移った。「残ってくれてありがとうな」。師匠からそう声をかけられ「最後の師匠と決めた」という。 稽古では「自分の型をもちなさい」と言われ続けた。通算戦績は147勝128敗27休。幕下昇進を決めた昨年3月場所の一番は最も印象に残る取組。私生活では「目配り、気配りの利く人間になれ。一日一日を大切に」と親方に説かれた。「部屋に入ったおかげで人間的にも成長した」と濱上さんは語る。 時に厳しい指導があったが、部屋は家族のような温かい雰囲気だと思っていた。だが、親方の行き過ぎた指導が報じられると「親方への受け止め方についてみんないろんな考え方を持っていた」ことに初めて気づいた。「親方と、力士同士とも、もっとコミュニケーションをとることができれば」と悔やむ。騒動を機に、同部屋の力士たちは複数の部屋へ移籍したが「早く新しい部屋に慣れてほしい」と気遣う。 第2の人生は、建設会社で働く。まずは体を治し、現役時代135kgあった体重を100kgに落とすことを目標にする。断髪式では、向の岡工業高校の清田英彦監督から「指導者として今後うち(向工)でやってほしい」とも伝えられた。清田監督は「人間としても裏表がなく、後輩に優しい。力士時代から(向工で)全力で指導してくれていた」と濱上さんの人間性を評価する。 母校に出向いて後輩たちに胸を貸す日々。濱上さんは「食事の大切さ、下半身の鍛錬の重要さを伝えています。引退後も、相撲界に関われることに喜びを感じています」と語る。, https://www.livable.co.jp/branch/miyazakidai/, https://www.livable.co.jp/branch/miyamaedaira/, https://www.livable.co.jp/branch/saginuma/. お知らせ. 旭國 斗雄(あさひくに ますお、1947年 4月25日 - )は、立浪部屋所属の元大相撲 力士。 最高位は東大関。 北海道 上川郡 愛別町出身で農家の三男として生まれる。 本名は太田 武雄(おおた たけお)、現役時代の体格は身長174cm、体重118kg、血液型はB型。. 二宮清純: 相撲界では、“お酒を飲んで馬力をつける”という慣習があるとお聞きしました。これはいい話ですね。, 旭道山和泰: このそば焼酎『雲海』の「そばソーダ」は飲み口がさわやかで上品ですね。しかも馬力がつくとあれば最高です。まだあと1、2本はいけますよ。, 二宮: えっ!? 最高位: 幕下十三枚目 本名: バトムンフ エンフバト 生年月日: 昭和48年8月4日 ... 歴代力士. 令和二年七月場所. 旭國 斗雄(あさひくに ますお、1947年4月25日 - )は、立浪部屋所属の元大相撲力士。最高位は東大関。北海道上川郡愛別町出身で農家の三男として生まれる。本名は太田 武雄(おおた たけお)、現役時代の体格は身長174cm、体重118kg、血液型はB型。, 小柄だが、闘志溢れる取り口で「ピラニア」の異名で知られた。引退後は長く年寄・大島として大島部屋を経営し、日本相撲協会の理事として巡業部長も務めた[1]。, 幼い頃からスポーツが得意で中学校時代は野球をしていた。3年生の時に人数不足から相撲部の助っ人として大会に出場し優勝。大島親方(元前頭19枚目・若浪)を紹介され1962年、立浪部屋に入門した。床山の新弟子と間違われたほど小柄だったため新弟子検査では4場所続けて不合格になり諦めかけたが、兄弟子や親方に励まされてもう1度受けることを決意。少しでも身長の計測で有利になるようにと兄弟子に頼んで頭を殴ってもらい瘤を作り、床山に頼んで髪を持ち上げてもらい検査を受けた。幸運にもその時(1963年7月場所)の検査を担当したのが師匠の立浪親方(元横綱・羽黒山)だったため御目溢しで合格の判を押してもらえた[3]。四股名である旭國は、かつて立浪部屋の力士であった同じ北海道出身の旭國(旭川市出身)の名を継いだもので二代目である。, 新弟子時代は同部屋の所属力士が約60人もおり、早起きしなければ土俵での稽古が満足に積めなかった。黒姫山も早起きであったので、どちらが朝稽古の1番乗りになるか競争していた。大部屋なので兄弟子のいじめもあり、早く出世しないといじめによって壊される恐れもあったので一生懸命稽古に励んだ。辛くなって辞めたくても、廃業したら母親が悲しむと思って我慢していた[4]。一方で、弟弟子の黒姫山の証言によると、やはり見習い期間が長かったため新弟子検査合格から半年程度で髷を結い始め、その頃から部屋の幕下とも対等に口を聞いていたという[5]。, 幕下時代に盲腸の手術を受けたが傷が癒える前に稽古を始めてしまい、しかも大酒を飲んだことがたたって膵臓を患い苦しまされた[1]。この膵臓炎は結果として「現役時代に10数回入院し、最長で28日間絶食」という苦しい経験をもたらす程に大きな障害となった。[6][7]膵炎の原因は根本として若浪の付き人を務めていた頃に酒を飲み過ぎたことにあり、若浪自身もそれを後年述懐していた。[8]1969年7月場所に新入幕。しかし1970年3月場所を急性胆嚢炎で13日目から途中休場し、翌5月場所は9勝6敗と勝ち越すも7月場所は4勝11敗と大負けして十両陥落。1971年11月場所に再入幕したが、翌年の1972年1月場所は膵臓炎で初日不戦敗の後休場してしまい再度十両陥落。同年5月場所に再々入幕してからようやく幕内に定着する。, 小結だった1975年3月場所は膵臓炎で入院し初日から休場したが点滴が終わると病院を抜け出して稽古をしていた。医師に「こんな体で相撲取ったら死ぬぞ。」と警告されても「土俵で死ねれば力士の本望」と10日目から出場して4勝2敗。背骨の両脇に上下に並ぶ鍼の跡の絆創膏が大きく目立った。翌7月場所で11勝4敗の好成績を挙げて1場所で小結に復帰してからは三役に定着していき、関脇の地位で迎えた1976年1月場所は12勝3敗、大関獲りとなる3月場所は初日から白星を並べていき13勝2敗の好成績で横綱・輪島との優勝決定戦に出場、敗れはしたが大関に昇進した[3][1]。28歳11ヶ月での新大関昇進は、年6場所制が定着した1958年1月場所以降初土俵の力士では当時最年長であった(現在は琴光喜が記録を保有)。実際に大関昇進が確定したのはこの場所13日目の北の湖戦で11勝目を挙げた一番で、右上手を取って頭を付けた旭國は、北の湖が右から小手に振るところを左外掛けで防ぎ、渾身の力で寄り切った相撲内容であった。立浪部屋からは若羽黒以来17年ぶりの大関[9]。, 大関になってからも膵臓炎の影響で満足な成績を出せる場所は多くなかったが、1977年9月場所は誰もが驚く絶好調、連戦連勝で横綱・北の湖と優勝争いの先頭を併走、直接対決には敗れ優勝はできなかった(北の湖は全勝優勝)が、堂々の14勝1敗[1]。しかし綱獲りとなった11月場所は8勝7敗に終わり横綱昇進は果たせなかった。, 平幕など下位の相手には技量・力量を見せつけ、比較的勝ち星を量産できたものの、横綱・大関との対戦になる場所後半に負け込むことがほとんどだった。横綱との対戦でとりわけ苦手にしていたのは輪島であり、対戦成績は4勝31敗(決定戦含む)と大きく差をつけられた。大関昇進を決めた1976年3月場所でも、本割・優勝決定戦の両方で輪島に敗戦した。また、北の湖との対戦も7勝27敗と大きく差をつけられた。この7勝のうち、6勝は大関昇進前の勝ち星であり、昇進以後は1977年5月場所に一度勝利したのみで、全く勝てなくなった。前述通り大関在位中に千秋楽まで優勝を争った場所でも北の湖に負けたことで優勝を逃した。その他、大関貴ノ花にも分が悪く、通算で11勝26敗と大きく負け越し(不戦敗を含む。両者が大関同士では対戦成績は4勝13敗)。, それでも持病の膵臓炎で度々入院治療を続けながら、1978年3月場所7日目、魁傑との取組で、4分26秒の大相撲で水入りして3分25秒でも勝負がつかず再水入り、両者に休憩時間を与える為に当日の結びの一番(北の湖 - 青葉山戦)を先に行った後、10分後改めて取り直し。その取り直しの一番もまた三度目の水入りとなる寸前の2分33秒で掬い投げで敗北を喫したものの合計10分19秒の大熱戦で、場所前に退院したばかりの旭國にとっては正に「土俵上で死ねたら本望」の言葉通りの相撲であった。この相撲は打ち出しが18時25分に達し、NHKの相撲放送延長の新記録となっている[10]。, 1979年9月場所7日目に同期生である新横綱・三重ノ海との対戦で負傷して途中休場後、再起は難しいと考えて引退した。現役引退に際し、「一度は優勝したかった」と名残惜しそうに述べていた。, 現役引退後は年寄・2代大島を襲名、1980年1月に分家独立して大島部屋を開設した。その後は第63代横綱旭富士を筆頭に、関脇旭天鵬・小結旭道山・同旭豊・同旭鷲山・幕内旭豪山・同旭里・同旭南海・同旭秀鵬・十両旭日松(友綱部屋移籍後に入幕)らを育てた[1]。所属力士の大半に、自身の現役時の四股名に因んで、「旭」で始まる四股名をつけていた。これは自身及び所属力士全員が友綱部屋に移籍(後述)して以降も同様であり、旭天鵬・旭秀鵬をはじめとする旧大島部屋から友綱部屋に移籍した力士は全員、旧大島部屋在籍時の四股名を名乗り続けた。, 1992年、当時外国出身力士の入門を自粛する方向にあったにもかかわらず、解雇も辞さない覚悟をもって、モンゴルから6人の新弟子をスカウトした[11][1]。その内5人(旭天山以外の全員)は厳しい稽古や慣れない日本文化を苦にして、7月場所後にモンゴル大使館に逃げ込み、最終的に旭天鵬及び旭鷲山は翻意し帰参したものの、他の3人(旭鷹・旭雪山・旭獅子)はそのままモンゴルに帰国してしまった。部屋に留まった3人はその後、旭鷲山がモンゴル人初の十両・幕内・三役力士となり2006年11月場所まで現役を続行、幕下・旭天山も2007年11月場所まで、そして旭天鵬は2015年9月場所までと、後のモンゴル人力士の時代を築いたパイオニアとして長く現役を続行した。部屋の稽古は厳しく、場所中も何番も相撲を取らせるなどの指導で知られた。旭天鵬は後に「他の部屋はやっていないのに何でと思った。でも、それがその後に生きた」と語った[12]。, 1998年から2010年まで6期12年の間、日本相撲協会理事を務めた。この相撲協会理事の選挙は10人の改選を5つある一門ごとに理事候補を調整して無投票で決定することが慣例であったところ、2010年2月の選挙では貴乃花親方が立候補したため4期(8年)ぶりに10人の理事を11人で争う形になったが、評議員の投票の結果8票で落選した。その後は役員待遇委員であったが、大相撲八百長問題で弟子の旭南海が関与したことを受け、2011年4月1日付で委員に降格した。, 2012年4月の停年退職後は大島部屋を旭天鵬に継承させる予定とされていたが、旭天鵬自身が「もう少し(現役を)続けたい」と現役続行の意思[13]を固めたことから、3月場所後に停年を迎えた後、大島部屋を一旦閉鎖し[14]、所属力士は全て友綱部屋へ移籍する形を採ることとなった[15]。そのため大島部屋は、自身が同年4月24日付で停年退職するのと同時に消滅した。定年直後の5月場所では、友綱部屋に移籍した旭天鵬が西前頭7枚目の地位で、37歳の高齢ながらも初の幕内優勝を果たす。なお旭天鵬の優勝パレードには、自身もオープンカーの助手席に同乗(優勝旗手は同じ立浪一門で宮城野部屋の第69代横綱・白鵬が務めた)。元愛弟子の平幕優勝達成に「引退すると迷ったこともあったが、もう一回やる気持ちになってくれてよかった」と手放しで喜んでいた[16]。, 『相撲』2012年5月号67頁には「北海道の母親が送ってくれた熊笹を煎じて飲んだおかげで調子が良くなり、引退後も症状が出ていない。大島部屋の関取衆もよく飲んでいるみたいだ。」と膵炎の治療についてのエピソードが記述されている。, 当時、角界にモンゴル出身者が一人もいなかったため、大島のスカウトは角界で初めての試みであった。, ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 創業70周年特別企画シリーズ②(別冊師走号、2016年)82ページから83ページ, http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2012/05/20/kiji/K20120520003291790.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=旭國斗雄&oldid=80134602, 技能賞:6回 (1972年9月場所、1974年3月場所、1975年5月場所、1975年7月場所、1975年9月場所、1976年3月場所), 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p105-106ページ.